知覧へ ~知覧編

ぐぅだら

2009年10月09日 18:29

さて、本日はメイン観光「鹿児島県 知覧町」です。

一般的に「特攻隊」で有名な町です。

現在30代後半の僕も、実はよく知ったのはここ最近です。

よく知るにつれ、日本人として一度は見ておくべき場所だと思うようになり、今回の目的地に選んだ次第です。

そしてココは、忘れてはならない、伝えていくべき歴史・・・人・・・・ 街だと感じました。

*知覧町は本土最南端の特攻基地があったことでも知られる街です。太平洋戦争末期、多くの若者がこの地から飛び立ち、そして二度と帰還 ... 数々の悲劇を生んだ戦争の記憶を風化させることのないよう、ここ知覧町には平和を願う様々な施設がございます。
宮崎市内から高速で約2時間半。

昨日の大雨が嘘のように天気は回復いたしました。



まず、目に付いた所から・・・ 富屋食堂です。

館内は撮影禁止だった為、写真はこれだけです。

富屋食堂は、特攻の母として慕われた「鳥浜トメ」の食堂でした。
鳥浜トメの生涯と特攻隊員とのふれあいの遺品・写真をおりまぜ、ともに暮らした赤羽礼子の証言により、当時の場所に再現いたしました。


知覧から飛びだった人々には、各々の悲しい物語があります。

僕のような無学な人間にも、写真・資料、そして文章によってわかりやすく描かれていますので、ついつい感情移入してしまいます。

そこに描かれているものは、死への葛藤ではなく、純粋な家族や恋人、残していく者への想い、感謝です。

知覧特攻平和会館へ向かいます。



ご覧のように、町中、燈篭だらけです。sozさんが、知覧町そのものがお墓のよう・・・とブログに書かれてましたが、確かにそんな気がします。

知覧特攻平和会館にて、気付いたら2時間程経ってました。



館内は撮影禁止ですので、外からの風景です。

言葉にならない・・・とは、このことでしょう。

申し訳ないのですが、僕は正直、なんと表現すれば、どういう風に書けばよいのかわかりません。

実際に、行って感じてもらえれば幸いです。

知覧特攻平和会館の周辺には、あらゆるものが残って点在していたりします。

どうしても、「特攻機の滑走路跡」を見たくて、sozさんに電話して場所を聞きました。



近所のスタンドでも聞きましたが、やはり、ここら辺一帯は全部滑走路だったらしいです。

そしてしばらく走ってたら、何やら見覚えのあるものが・・・・・



(;°д°)!! そうです。ちょうど2ヶ月前に、sozさんがビバークした場所ではありませんか。



おいでよ わたしの畑に と書かれてありますw

なんとなく、印象的だったので覚えていました。

余談ですが、この場所でsozさんは、あるおじさんに声をかけられ、当時の米軍が写した知覧の航空写真に説明書きを加えた地図を特別にいただいたそうです。

この後、思いがけない場所で、僕らもこのおじさんに出会うことになります。

   



一通り巡った後、最後に山砲座跡を見て宮崎へ帰ることにしました。



ここでは、知覧の町を一望出来ます。

あぁ・・・ あそこが滑走路だったんだ・・・・ などと、物思いにふけっていたら・・・・・ 1台の軽トラがこっちに登ってくるのが見えました。

山砲座跡の駐車場に車を止め、僕らのほうへ大きな地図を担いで登ってくる人がいます。

ちょっといいかな?と僕らに集合をかけ、そのおじさんがベンチにその大きな地図を広げます・・・・



あ!Σ(゚Д゚; この地図は・・・・

おじさんは、丁寧な口調で地図を見ながら色々と語ってくれました・・・・

この基地から飛び立った若者は、筆跡を見てもお分かりのように優秀な若者ばかりだったこと・・・・

あそこに見える開聞岳を目指して、飛びだったこと・・・・ などなど。

当時の様子が脳裏に浮かぶようで、ついつい目頭が熱くなりました。

そして、最後に・・・・ ここ知覧は、親と子供がお互いを想う気持ち、残された者への愛情に溢れた場所だから、今度は子供を連れてきてほしいと。



おじさんと別れ際間際に、
「つい2ヶ月前、あそこの小屋にテントを張って泊まった人がいたのをご存知ですか?」とふと聞いたところ、

「あぁ。愛媛からカブ号で来たにいちゃんか!あの日は雨風が凄くてなぁ・・・」

としっかり、sozさんのことを覚えていらっしゃいましたw

僕らがそのカブ号に乗る人の知り合いであり、またその彼に聞いて、この土地に来たことを伝えると、大変驚かれてました。

僕らは、奇妙な人の因縁を感じつつ、知覧を後にしました・・・・


最終日につづく・・・


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